時間は普遍

例えば、
沖縄旅行に二泊の旅行にいって、
最終日になると、
飛行機に乗って帰るのが億劫になる。


別に、
明日から仕事だの、
現実に帰るだのが問題ではない。


単純に、
飛行機に3時間乗って帰るのが面倒なのだ。


飛行機に乗るために1時間かけて飛行場に、
出発30分前に搭乗手続きをして、
飛行機に乗るという一連の動きがとても面倒であったりする。
合計で5時間くらいの所要時間であろうか。


でも、
こういった5時間は、
生きていれば、
飛行機に乗っていても、
遊んでいても、
仕事をしていても、
勉強していても同じ5時間なのだ。


ようするに、
億劫な5時間と、
そうでない5時間がある。


ただし、
同じ5時間であることは何ら変わりがない。


そういった億劫な5時間を過ごすときは、
(1)「〜しなくてはならない」、
という縛られた時間と、
(2)構築的な作業(空港に行って、搭乗手続きをする、等の一連の流れ)、
をしなくてはいけない。


要するに、
この二つが億劫な時間の元になる気がする。


ただし、
5時間であることは何ら変わりがないのだ。


つまり、
そういった億劫な5時間を過ごすときに、
考え方を変えて、
遊びでも、億劫でも同じ5時間じゃないか、
と、考えると気が楽だ。


考えかたを変えて考えるといいのだ。


同じ時系列の中で、
同じ5時間をすごすという動作。


そのとらえ方は、
人によって異なるし、
考え方によっても、
その環境によっても異なる。


ただし、
5時間であることは何ら変わりがない。


ようするに、
考えかた、とらえかたを変えることで、
億劫なものを、当たり前の5時間に変えればいいのだ。


今日もぼちぼちマイペースでいきましょう。