僕について2

僕の病気の回復期のお話をします。
うつ病で辛い人に、
希望を与えられるような内容に思います。


うつ病になっても、
絶対に症状は回復します。


絶対に死んではいけないよ?


ぼちぼちマイペースでいいんだから、
生きること、
とりあえずしてみよう。


日記、僕について、
の続きなので、
タイトルは『僕について2』です。



2008年8月


どうも体調が悪い。
暑いと体調がくずれるように思う。
おそらく夏バテになり、
自律神経のバランスが悪いことと、
抑鬱がまざって、
体調を崩しているのだと自己分析。
寝たきりになった。


このとき、解離性障害がひどかった。
主人格の僕は記憶にないけど、
とても暴れて、自殺衝動のすごいのが別人格らしい。


ある朝起きたら、土の上で、
別人格によって飛び降り自殺未遂があったみたい。
腕が折れていた。


あと、暴れたあとで、
家の壁が穴だらけになっていた。


この後も、
たまに解離性障害はあった。



2008年9月


学校始まるも休む。
入院が確定。
横浜市大の開放病棟のベッドの空きを待つ。



2008年10月


ベッドの空きがひと月以上出なくて、
暑さも和らぎ、体調は少しずつ回復。
同じように拒食の症状も和らぐ。
体重もこのころには結構増えていたと思う。
おそらく56キロくらいには増えていた。



2008年11月


学校に通いだす。
先生みんなが僕の体調を気遣ってくれていた。
安心して通うも、
閉所恐怖とパニック障害があり、
電車に乗ることが怖かった。
グリーン車で通学していた。



2008年12月


運動不足解消にバドミントン始める。
近所のオヤジに嫌みを言われながらバドミントンやる。
二回目あたりで、
ストレスでパニック障害がでる。
すぐに家に帰る。
いまでも、そのオヤジは嫌われている。



2009年2月


ひさしぶりに沖縄に行く。
主に八重山諸島にいた。
勉強もしていたけど、抑鬱との戦いで、
なかなかはかどらない。
島の病院の先生や、宿の夫婦、
バドミントンチームのおじさんに世話になる。
体調があまり良くなくて、
記憶がすくない。



2009年4月


大学院2年はじまる。
1年のときより気軽に通えた。
1年のときに単位を取り終えていたのが良かった。
論文の主題は同じだけど、
なんとなくしっくりこなかったところがあったかもしれない。



2009年5月


近所のオヤジと藤沢市のバドミントン大会にでるも、
惨敗。



2009年7月


やはり体調を崩した。
入院予約をいれた。
ベッドが空いて入院することになったけど、
自分の意思で入院を拒否した。
ここで入院してしまうと、
外部の情報が全く入らないし、
自分から自発的に何も行動が起こせないのが、
とても嫌だったので入院を拒否した。



2009年9月


近所にある簡単な英会話学校に通いだす。
不得意意識があった英語だったが、
ちゃんとやりたいと思った。

再度、入院予約を入れるも(自分の意思でない)、
拒否。

とにかく、自殺衝動がすごかった。
早く死にたかった。

薬の影響で1年弱、断続的に体調が増える。




2009年10月


大学院に再度通いだす。

飲んでいた薬が、
認可されたばかりの新薬に変わった。
副作用で体重が68から77キロに一カ月で増えた。
すぐに飲むのをやめる。


過食の症状で吐いても食べ続けた。
薬を飲むのをやめたら過食はなくなった。


同時に仕方なくダイエット開始。
長い道のりスタート。



2009年12月


市町村のバドミントン大会にCクラス(三部)だけど参加、諸事情により準優勝。


年末に体調を崩して、
なんだかこんなに体調不良と付き合い続けるのが嫌になり、
自殺することを決める。
近所の公園の木の枝の上に立ち、
首に縄をかけて、枝の上に立ち、
枝が折れたら死ぬことにした。


首つりする前に、
自殺コールセンターみたいのにかけてみた。
留守電で、営業時間を、機械が伝えるだけだった。


「もっと気のきいた留守電にしろよ」
と、思った。
例えば、
「誰でもいいから声をかけてみて!死なないで!」
とか留守電にいれとけよと思った。
余計寂しくなって死にたくなった。
今までで一番の幻覚と幻聴が聞こえた。
皆が僕の死を望んでいるように思えた。


警察と家族がどうやったのか知らないけど、
助けにきた。


それでも生きている心地なんかしていなかったと思うけど、
幻聴や幻覚は消えていた。


(体重73キロ、4キロ減)



2010年2月


1年ぶりに沖縄に行く。
最初は気が進まなかった。


心の隅っこに沖縄はあるけど、
自分の生活から、
どうやってかかわっていいのか解らなかった。


お母さんが織物しているので、
離島も含めて、まわった。


沖縄本島で、
紅型の工房での体験を受ける。
最初は受ける気なんてなかったけど、
時間が余ったから、やってみた。


「これだ」と思った。


くすぶっていた、
被服、
ファインアート、
デザインへの気持ちがよみがえった。


僕は紅型や伝統工芸に関わって生きていくのだと、
たった数時間のうちに思った。


帰ってきてからいろいろ調べた。
伝統工芸が心の支えになっていった。


(体重70キロ、7キロ減)



2010年4月


英語学校本格スタート。
体調を優先させていた。
同時に伝統工芸をすこしづつ調べる。


(体重69キロ 8キロ減)



2010年6月


ぼちぼちマイペースで勉強続ける。
思いのほか何とかなって、
自分でも体調が回復しているのが分かった。


(体重67キロ 10キロ減)



2010年7月


沖縄の伝統工芸調査始める。
毎日、殺人的ハードスケジュール。
沖縄から帰ってきて、
英語学校のサマーセッション(生き地獄)スタート。


とある市町村のバドミントン大会に、
無謀にも一部(Aクラス)で参加。
奇跡的に一勝を挙げる(←かなり嬉しい)


(体重64キロ 13キロ減)



2010年8月


お盆休みまで、英語の生き地獄は続いた。
休みが終わってしまったら、
再度、生き地獄スタート。


休み中、伝統工芸の論文まとめる(予定)
でも、休みだし少し遊びたいかも。


他の英語学校の入学模試をうける、
TOFL(PBT)でスコア513。
まだ実力ないのにあるていど出来たきがするけど・・・。


しかし、


大まかな換算表をみたけど、
http://allabout.co.jp/gm/gc/58085/
これ、合ってないべ?
準一級持ってるけど、
PBTで554点もたぶんいくかないし!


嫌いな英語も、
続ければ好きになり始めることが実証される(笑)



(体重63.6キロ 13.4キロ減、
これにてダイエット終了。ダイエットは一日にしてならず 笑)



☆今までを振り返ってみた☆


病気になったころは、
こんなに体調が回復して忙しく毎日を送れるとは思わなかった。
そういう意味で、幸せだけど、
体調を崩さないように、
もっとスケジュールを負荷のないものにしなくてはと思っている。


同時に、自分が人間であることを、
今月になって改めて意識するようになる。


つまり、社会生活を送って、満足を得ることは、
人間らしい生活に活気を与えるのだと思える。
が、人それぞれまちまちなので、
あんまり深い意味はない。


でも、今月になって、


2006年11月から完全に止まっていた、
自分の中の時計が、
今月あたりから、すこしづつ動き出したように思えるのだ。


不安は多いけど、
ぼちぼちマイペースでね。