すべての死にたい人に 2

死を受け入れることを人間はできないのか、
そんなものは涅槃の境地であるのか、
それには答えはない。

  
人は生まれ、そして死ぬが、
生を持った者の思考は千差万別である。
あらゆる境遇があり、死に対する価値観は異なる。
経済的に富める国、そうでない国、
ただそれだけの差の中でも異なる。
また、宗教もそうである。
後発的に境遇を創りあげる。
それは究極的には死の恐怖から逃れるために在るのかもしれない。


しかし、
死を受け入れてしまうことも境遇の一つである。
本来的には、死は恐れられるものであるが、
それを受け入れてしまう境遇がある。


しかし、
自然界の中では異例な思考であるように思う。


人間の思考能力は発展をとげ、
技術・情報は積み重ねられ、
それでもさらにまだ見ぬ場所を求める。
利己的という考え方も在ろうが、
これが人間の運命であり、
思考の末の一例である。

生と闘うことは、死と闘うことと同じか否か。
そんなものを一般論で語ることは、もはや不可能な領域にある。
なぜなら、境遇がすべてを左右するからである。


末期医療、精神疾患


本来、自然の循環機能の中で、
死を受け入れるという思考は存在しないはずである。
にもかかわらず、
人間は、境遇(たとえば病気、あるいは精神疾患のような定義があいまいなもの)によって、
本能の中には存在しないはずの思考をする。


それは、どういう境遇であろうか。
本能にすら逆らう、
冷たい境遇なのだろうか、
あるいは、
本能にすら逆らう、
灼熱の境遇なのであろうか。


どちらにせよ、
発達した思考能力や、それに伴うものの存在と、
境遇の連鎖により、
本来的には備わっていない思考をする。


病気によるものであれば、
絶望し、
あるいは、憤りを感じ、
あるいは、諦めるように受け入れるのか。


精神疾患のようなものであれば、
意欲を失い、
希望を失い、
自信を失い、
友人を失い、
あるいは、枯れるように受け入れるのか。

それでも、医学、信仰があり続けるのは、
それでもなお、生にこだわっているからなのか?
一般論というものは存在し得ないが、
やはり、人間も自然の循環機能の中にある。
本来そのようなものだ。


しかし、
死というものは、一度しか体験できない未曾有の出来事である。
生の中での唯一の非日常、
それが死なのだ。
その先にあるものは、完全な無であろう。
体験できない上、その先がない。
先がないものに、人間は希望を持てない。
だから、恐れる。
希望は人間の生きていく上での栄養素になり得る。
それが枯渇することを想像できるから、
恐れ、簡単には受け入れることができない。


境遇、
数奇なものか否か。
しかし、受け入れるしかない場合も多い。


僕にとって、境遇は鬼のような日常であった。
本能にすら逆らった。


口が裂けても、
この境遇が与えてくれた自分の現在地を喜ぶ言葉は出ないが、
感謝の言葉、
あるいは、
言葉以上の感謝の念は、いくらでも出てくる。

本当の意味の完治は無い病気。
最初は受け入れられなかった。
今だって、きっとそうだ。


現在、久しぶりに実家を離れ、
他人との共同生活をして、
改めて、健常である人との違いを見せつけられ、
自信を失った。


自分は、病気を誰かに理解してもらって、
少し頼ることをしなければ、
生きていけない。
そうなのか?


チガウ。
みんな一緒。


誰だって一人じゃ生きていけない。
甘えていい。


生きている意味をいくら考えても、
長い目で見てみれば、
みんな同じ分しか笑えていない、
かも。

一人じゃない・・・。
これは確信的に云えることだ。
だから、
人は自ら命を絶ってはいけないのだと思う。


「一人じゃない、
あなたをおもう人がいる」
どんな状況にいても、
これだけは忘れてはいけないことに思う。


2009年2月9日の日記より