自己愛の崩壊の尊重 その有効性(他人と自分を比べることについて)

自己愛の崩壊について。


ネガティブな印象に思うが、
かなり人間としてはポジティブなものに思う。

先日の毎日新聞の記事に、
寺山修司秋葉原の通り魔事件の加害者は同じ高校である、
とかに絡めて、
自己愛について語られていた。

前々から、自己愛の存在に気がつくことはあっても、
それが自己愛という名称かどうかは、
自分の中で整理がつかないでいた。
この記事を読んで、
このようなものが自己愛という、
と、いうことを知った。


その自己愛については後述するが、
現在新聞を二紙(毎日と朝日)とっていて、
朝日の夕刊の一面に連載されている、
自殺についての記事はなかなか着眼点がいいと思うが、
毎日の記事は専門家過ぎる人に頼りすぎていて、
記事の内容が偏っているように思えた。


さて、自己愛についてだが、
人間が子どもから大人になるにかけての、
人格形成において、
この自己愛の崩壊はとっても大切なことだと思う、
と、いうことを結論としていいたい。


例を挙げてみよう。


子どものころに、
自分も含めて、
自分はなんにでもなれる(プロ野球選手やNBAプレイヤー、大学教授)と、
考えていた。
人間は広く平等で、
万能なものであると思ってしまうフシがあるのだ。


だが、それが大人になるにつれて、
自分より野球が上手な友達が、
高校野球でレギュラーを取れない、
だとか、
大学受験の模試を受けたら東大には行けないだとか、
自分の立ち位置を確認する。


もしくは、
友達と自分を比較して、
例えば、
友達は社会はできるが、
自分は英語ができる、
なら英語で勝負だ、
と、的を絞ること、
そぎ落とすことで、
自分が万能であること(自己愛)を崩すことができる。

よく、まわりの人と自分を比べてしまうというが、
僕はこのことを悪いこととは思わない。
自己愛を崩すチャンス、
言い換えると、
自分はこういうことができると確認するチャンスだからだ。


こういった自己愛の崩壊が上手な人ほど、
賢く、
話していても面白い人が多い。
自己アピールを行わない分、
自分の意見を話すことができるからだと思う。


よく、
自慢話ばかりする人や、
自己アピールが過ぎたり、
自分の意見は正しいと思い込んでいたりする人、
夢ばかり語る人、
などは、
この自己愛の崩壊がうまくいっていないのでは?
と、思ったりする。
話していても、
意見が偏っていて、
非常につまらなかったりする。


僕自身も、
人間万能思考が強かったために、
自分の器量以上のものを長時間行ったために、
その負荷で病気になった。
今、考えれば至極当然の成り行きだと思う。


少し話はそれるが、
最近、自己紹介する機会がいくつかあったが、
自分は、自己紹介をするにあたって、
全ては、
3年と1か月前からの自分(病気になった後の自分)として、
自己紹介していた。


つまり、
病気になった後に、
自分はそのことで生まれ変わったかのようなもので、
病気以前に自分が行ってきたことは、
今の自分にはできないから、
自己紹介において全く紹介できないのである。

これは、
通例でないケース(?)の自己愛の崩壊ではないかと思った。

強制的に自己愛を崩壊させて、
自我の成長を促したのではないか、
と考えた。


そうであるならば、
病気にかんしても、
ネガティブな感覚にはならない可能性がある。


ポジティブ、
プラス思考。

2009年 12月25日 日記より