以前の日記(2009年2月の心境)。境遇について。
死を受け入れることを人間はできないのか、
そんなものは涅槃の境地であるのか、
それには答えはない。
人は生まれ、そして死ぬが、
生を持った者の思考は千差万別である。
あらゆる境遇があり、死に対する価値観は異なる。
経済的に富める国、そうでない国、
ただそれだけの差の中でも異なる。
また、宗教もそうである。
後発的に境遇を創りあげる。
それは究極的には死の恐怖から逃れるために在るのかもしれない。
しかし、
死を受け入れてしまうことも境遇の一つである。
本来的には、死は恐れられるものであるが、
それを受け入れてしまう境遇がある。
だが、
自然界の中では異例な思考であるように思う。
人間の思考能力は発展をとげ、
技術・情報は積み重ねられ、
それでもさらにまだ見ぬ場所を求める。
利己的という考え方も在ろうが、
これが人間の運命であり、
思考の末の一例である。
生と闘うことは、死と闘うことと同じか否か。
そんなものを一般論で語ることは、もはや不可能な領域にある。
なぜなら、境遇がすべてを左右するからである。
末期医療、精神疾患。
本来、自然の循環機能の中で、
死を受け入れるという思考は存在しないはずである。
にもかかわらず、
人間は、境遇(たとえば病気、あるいは精神疾患のような定義があいまいなもの)によって、
本能の中には存在しないはずの思考をする。
それは、どういう境遇であろうか。
本能にすら逆らう、
冷たい境遇なのだろうか、
あるいは、
本能にすら逆らう、
灼熱の境遇なのであろうか。
どちらにせよ、
発達した思考能力や、それに伴うものの存在と、
境遇の連鎖により、
本来的には備わっていない思考をする。
病気によるものであれば、
絶望し、
あるいは、憤りを感じ、
あるいは、諦めるように受け入れるのか。
精神疾患のようなものであれば、
意欲を失い、
希望を失い、
自信を失い、
友人を失い、
あるいは、枯れるように受け入れるのか。
それでも、医学、信仰があり続けるのは、
それでもなお、生にこだわっているからなのか?
一般論というものは存在し得ないが、
やはり、人間も自然の循環機能の中にある。
本来そのようなものだ。
しかし、
死というものは、一度しか体験できない未曾有の出来事である。
生の中での唯一の非日常、
それが死なのだ。
その先にあるものは、完全な無であろう。
体験できない上、その先がない。
先がないものに、人間は希望を持てない。
だから、恐れる。
希望は人間の生きていく上での栄養素になり得る。
それが枯渇することを想像できるから、
恐れ、簡単には受け入れることができない。
境遇、
数奇なものか否か。
しかし、受け入れるしかない場合も多い。
僕にとって、境遇は鬼のような日常であった。
本能にすら逆らった。
口が裂けても、
この境遇が与えてくれた自分の現在地を喜ぶ言葉は出ないが、
感謝の言葉、
あるいは、
言葉以上の感謝の念は、いくらでも出てくる。
完治は無い病気。
最初は受け入れられなかった。
今だって、きっとそうだ。
現在、久しぶりに実家を離れ、
他人との共同生活をして、
改めて、健常である人との違いを見せつけられ、
自信を失った。
僕は、病気を誰かに理解してもらって、
少し頼ることをしなければ、
生きていけない。
そうなのか?
違う。
みんな一緒。
誰だって一人じゃ生きていけない。
甘えていいのだ。
生きている意味をいくら考えても、
長い目で見てみれば、
みんな同じ分、笑えているだけに思う。
さて、
境遇は人により様々ですが、
ぼちぼちマイペースでいきましょうね。