死にたい人へ

孤独を満たすものがわかった。
孤独を満たすものは死。


死は孤独から解放してくれる。
死後は孤独など無い。


何故なら、
死後は無であるから孤独ではない。


最期にこそ孤独は満たされるものだ。


それでも死が許容されがたいのであるならば、
生とは無情である。
故に、
諸行は無情である。
この場合、
諸行もしくは行とは、
生そのものである
奇跡的かつ歪に構成された社会において、
生そのものは行であるといえる。


日々の積み重ねの上にしか、
成果は生まれない。
しかし、
日々の積み重ねの行動を行うか否かは個人の選択であるが、
その積み重ねの鍛練を行おうが行わまいが、
つまり、
結果として成果が在りが社会に認められても、
そうでなくても、
どちらでも構わないのだ。
仮に、
富豪になっても、
富豪や、それをうらやむ人の間でしか価値がないものであり、
そうでない人には無価値であり、
それこそ無情である。


無価値や無情に意味を求めることは、
無意味に意味を追求するがごとく辛辣な作業だと言える。
また、
その作業そのものが、どうやら生きるということのようだ。


つまり、
各々に限りある時間の中において、
ここに居るということを辞めないことが肝心なのである。
その長短、質等は問題ではない。
辞めないで、できる範囲で続けることなのだ。


確かに、
死は孤独を解放するが、
その孤独に対抗しなくてはいけない。


生をもってして、
ようやく孤独に対抗することができる。
そのような対抗を行うことを、
無意識の中に人間は続けていかなくてはならないが、
続けることが辛くなったりしたら、
そういった抵抗を辞めないでいればいいのだ。


続けずとも辞めなければいいのだ。
抵抗・対抗ができない日もあるかもしれないが、
明日はできるかもしれない。
そういって、
続けなくても、辞めなければいいのだ。
そのうちに出来ればそれでいいのだ。


今日と明日のことの準備くらいしか人は行動ができない。
夢があろうと無かろうと、
闇があろうと無かろうと、
今日と明日の準備が出来る事くらいだ。


自分のできる範囲でぼちぼちマイペース。
とりあえず、
生きることを辞めないでいよう。
孤独を満たすものなんかないのだ。