言葉の事 ‐制作における言葉−

(前回からの続き)


言葉は難しい。



制作における言葉は、
説明的になるといって、
避けられることが多い。


なんだか知らないけど、
説明的な言葉で作品を説明すると、
かっこ悪い、
と、いう風潮がある気がする。
(僕は、かっこ悪くは無いと思う)


確かに、
説明的になっている文章は利己的であり、
あまり効果的でない場合もあるかと思うけど、
作品を見た人の感覚にうったえかけ、
その人の中で物語が構成される補助をするのであれば、
言葉の効果は大きいし、
必要だと思う。


説明的な言葉での作品紹介と、
感覚にうったえかける言葉。


言葉という表現手段を持つことも、
良い。
(言葉以外の表現手段(純粋さ)が悪いというわけではなく)


言葉を紡いでこそ、
作品も紡げると思う。
それが自分のやり方。


それと同時に、
時にそれを否定するのも、
自分のやり方。


(あー、体調が悪いと(最近の人間関係のストレスに由来するもの)、
なかなか脳みそが回らず、言いたいことを云えないし、
言えたとしても、実際に行動として昇華できない。
またそれがストレスになって辛い)


言葉の力は強い、
作品をあんに意味するものの補助という役割、
それと、
コミュニケーション(人間関係)の役割、
色々ある。


僕には、
両方、欠している。


まずは、
コミュニケーションからくる言葉の役割に、
自分が殺されて(邪魔されて)いること、
(言葉で殺し返したい、(論破?いや、違う)気持ちがある)


そこから来るストレスで・・・


(作品の補助説明が出来るか否かのセンスの、
心の体力が充ちたりないこと)
が、生まれる。



この二つの問題の振り子が、
振り子の二つの終点を持ってして、
左右に揺れているが、
その振り子の動きは重力に反してアンバランスだ。


コミュニケーションの方の(言葉)振り子の振れ幅が大きく、
作品説明の言葉の振り子の振れ幅は結構小さい。
(結構差があるということ)



邪魔しないでくれたら、
それで言葉尻をとって、
上げ足を取ってくれないでいたら、
それでいいのに。


邪魔しないでくれ!
と、言っても、
判らない人なのかもしれないけど。

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後は、
言葉を日々紡いでいない事からくる、
自分を表現する感覚の減少は、
本当に怖い。


ここで文章を書くことが減ってから、
自分はストレスがたまったり、
自分を表現できなかったり(説明できなかったり)、
することが増えた。


これは良くない。
本当に良くない。


言葉を紡いでいきたい。


なにより、
自分の為になるから。


ぼちぼちマイペースで。