死にたい 人へ

自殺は自分自身に対する殺人だ、

と、いう記事を読んだことがある。

だが、

これは間違いだと思う。



自殺したいほど辛い人に、

殺人だからやめろということだろうか。

そんな簡単なものではない。



そもそも、

殺人は憎悪が込められ、

自分にとって対象の価値が無い、

と、断定した時に起こるものに思う。

つまり、

殺人事件が起こる場合は、

事件を起こす当人にとって、

対象の存在価値が、

ゼロに成った瞬間に起こり得るのではないか。

ただし、

その存在価値などの価値感情は、

事件を起こす当人だけが有する、

一方的な、

「感情」

であって、

実際のところは、

対象の存在価値は計れるものではなく、

無限といえる。

 

また、

本来であれば、

「死」

と、いうものは、

自分自身に要因があり起こり得る。

つまり、

病死などの自然死の事である。



自殺はというと、

殺人が起こる状況を考えると、

自分自身が自分自身に対して、

存在価値が無いと判断した時に起こる、

と、思われがちであるが、

実際のところは、

自分に価値が有ること、

(または、

価値が有る可能性があることを知っている)

を知りながらも、

自殺は起こってしまう。

(…ここが、

殺人より自殺者が多い現状の問題点かもしれない)



つまり、

自分の価値が計り知れないもの(無限)であるのに、

なかなか自由に生きることができない、

そういった事が、

なかなかできない高度に現代化された社会に、

問題点が少なくないように思う。



生きれるのに、

生きていきたいのに、

なかなかそれを許してはくれない現代という風潮…。

言い換えると、

失敗を怖れる生き方を否定し、

常にチャレンジを求めたり、

転んでもすぐに立ち上がったりする事に美意識を置く、

間違った日本の風潮があること…。

そうするとますます、

失敗したときに、

方向転換が難しい世の中になってしまうと思う。



だが、

どんな形でさえ、

「生きていく」と、

いうことが大切であって、

生きていく限り(もしくは生きているだけで)、

人は、

とても有意義であるということ、

それを、

なるべく忘れては行けない。



つまり、

あまり生き方など固いことは考えずに、

ぼちぼちマイペースで毎日を生きることは、

それはそれ幸せで有意義だ、

と、いうことです。



今日は天気がよく気持ちが良かったです。