何か変だと感じたことは、やはり変なこと

自分の感覚が変なのか、
周りの感覚が変なのか、
わからなくなるときがある。


例えば、
いつも怒ってばかりいる人がいて、
自分が悪くないとわかっていても、
いつも怒られていると、
自分が悪いのではないのかと錯覚する場合がある。


でも、
だいたいのことは自分の感覚を信じても、
差障りは無いかもしれない。
少なくとも、
自分が変だと思っている時点で、
その対象の人とはソリが合わないはずだ。


そういった、
日常にありふれている自分が抱く違和感は、
常識から逸脱している可能性が高いといえるのではないか。


また、そういった、
自分の感覚を大切にしていくことが、
社会全体に存在する、
何かが偏っている常識や非常識に対抗できる手段なのかもしれない。


つまり、
自分の感覚を信じてあげること、
もしくは、
自分が一番最初に感じた違和感を思い出すこと、
などが大切になりそうだ。


自分の中の常識は、
他人にとっての常識では無いかもしれないが、
逆に、
他人の常識は自分の常識とは無関係だ。


自分の中の常識で、
他人の非常識な見解が受け入れられない時、
自分の常識を信じることが大切に思う。


何か変だと感じたことは、
やはり変である可能性が高い。


そういった、
他人から見たら非常識なことが常識になっているケースが少なくなることが、
今後の、変に組織化された社会に必要になるのかもしれない。


自分の中の常識が揺らがなければ、
例え他人の非常識を押し付けられても、
ある程度、割り切ることができるかもしれない。


そこから解決策を見出してはいけないか。


なんにせよ、
自分を信じてあげることが、
どんなときでも重要で、そういう考え方が持てれば、
誰にでも色々とある不安も、少しは減るのかもしれない。


自分の感覚を信じることや優先することも、
時には大切に思います。


なにかとストレスたまりますね。


本当に、なにかと。


自分くらい信じてあげれたら。


明日からも、
ぼちぼちマイペースで行きましょう。