完璧であることの感受性の違い −自分の完璧と他人の完璧と自己ベストの更新−

完璧である必要はなく、
完璧にすることは不可能で、
それを求めると、
心が病むし、
なにより完璧を求める心は、
完璧を求めるが故に、
その意思が強いと、
どんどんと完璧のハードルが上がってしまい、
ついには完璧とは何なのかわからなくなる。


他人から見ると完璧であっても、
自分の感受性で考えると完璧でないことはよくある。


(絵画などを見ているとそう思う。
作者は隙が多い作品を描いたつもりが、
人によっては完璧に見える)


この辺が他人と自分の完璧に対する感受性の差異であって、
自分が完璧ではなくても、
世の中(他人)からは完璧と取り扱われることもある。


故に、
自分自身が完璧である必要性は薄れる。



でも、
人間は完璧を求めたがるのだ。


では、どうすればいいのだろうか。



自分が考える完璧への対処の仕方は、
ある程度の踏ん切りをつけて、
結果を受け入れることもそうだが、
自己ベストの更新をすることを目標にするのがよさそうに思う。


自分の場合の自己ベストの更新は、
例えば、
「今回はこういう作品をつくりました」
でも、
「自分の中では、この点がかなり足りないと思う。
ただ、この点は前回の自分の作ったものより改善していて、
その点は自己ベストの更新であって、
次回からこの自己ベスト以下で作品を作ることは無い」


と、いう考え方だ。


完璧でなくても、
過去の自分を少しでも超えられたと感じたなら、
そこから後戻りをしないように心がければよいのだと思う。


(ただし、
人間は生き物であるので、
忘れていくし衰えていくので、
記憶や運動などの数字や可視化できる記録に対する自己ベストは、
更新し続けるのは不可能)


(こういう場合、人間性の進歩であったらできる(自己ベストの更新)。


例えば、
スポーツであれば後進の育成に携わったりすることは、
自己の経験を後の世代に残す形で経験を昇華し、
可視化できる記録とは別の形で自己ベストの更新が可能だ)


完璧である必要は無いけれども、
自分がある程度納得して、
腑に落ちるような経験を重ねていきたいと思う。


ただし、
このような硬い考え方をいつも持っていては、
なかなか前に進まないし、
あんまり良いことに思えない。


(自己ベストの更新とは、
指針を自分で決めてもいいと思う。
自分で納得するような、
自分に言い聞かせるような、
そういった形の自己ベストの更新でよさそうだ)


肩肘を張らない程度で、
6から7割程度の力を継続させていくように、
ぼちぼちマイペースでいけたら、
それが自己ベストで、
僕の中では完璧に近いような脱力加減だ。