「自分を信じること」と「自信」

自分を信じると書いて、
自信と読む。


自分の性格として、
自分は、
自信が無いと思う。


周囲からは、
「自信が何故ないのか?」
と、聞かれることも多い。


謙遜して、
とか、
謙虚な気持ちで自信を言わないのだ、
と、自分では思っていた。


けど、
自分を卑下する事は、
「失敗した時の言い訳」
のためにしているようにも思えるし、
「能ある鷹は爪を隠す」
とは、別の次元のものだと思う。


(自分が自分を卑下するとき、
「能ある鷹は爪を隠すものだ」と、考えていた。
しかし、なんてセコイ考え方か)


しかも、
自分は、
「自信は無いけど、自分は信じている」
のだ。


言葉の微妙なニュアンスの違いだけど、
「自信」
という言葉が、
「自分を信じる」
という構成で成り立っているのだから、
やはり、自信を持つ必要がある。


周囲から言われるのは、
「出来ているのに(時には、抜群に出来ているのに)、
どうして“出来てる”と絶対に言わないの?」
と、いうことだ。


昔から、そうだったかも知れない。


試験においても、
模試の判定も良い、
勝負もできる、
と、解かっていても、
「もし失敗した時の為」
と、自信のあることは一切口にしなかった。


自分を信じてあげれないのに、
勝負事をしてはいけない。
と、頭ではわかっているつもりでいた。


今でも、
その癖が直らない。
故に、
僕は自分自身に対して、
「自分を信じて」あげれていない。
(当然、自信もない)


故に、
自分は自分を信じている、
と、いう力関係は成り立っていなくて、
やはり、
「自分を信じてあげて、自信をつけていく」
或は、
「自信をつけて、自分を信じてあげる」
必要がある。


(特に前者が重要:つまり、自信と自分を信じることは、イコールではなくニアイコール)


自信=自分を信じること
ではなく、
自信≒自分を信じること
である。


とにかく、
極端な話だけど、
ナルシストか自信過剰者、
もしくは、見当違いなくらい、
自信を持ってもいいのだと思う。
(自分は自信を持つことが難しいので、極端に考えた方がよさそう)


とにかく、
どんな小さなことでもいいから、
それを自信に変えていく必要がある。


その小さな自信を上手に積み上げていき、
どんどん自分を信じていきたい。
もしくは、
頑なに自分を信じて、
自信を積み重ねていきたい。


誰から信頼されるかは判らないけど、
「自分くらい、
自分を完全に信じてあげたい」
と、思う。


(つまり、自分はいつだって自分の見方ってこと)


例え、どんな状況に居たとしてもだ。


明日も、
一日でやれることはたかが知れているけど、
自分のできることできる範囲で、
ぼちぼちマイペースでいきましょう。