好きなことが嫌いにならないと思い込んでみる

好きでやっているはずが、
辛かったりする。


僕の場合も、
好きで選んで、今の仕事をやっているけど、
図案をやっている時なんか、
辛い以外の何物でもない。


でも、
仕事が楽しいと言い聞かせて、
自分の中で消化する。


僕ばかりでなく、
皆、一緒ではないかと思う。


口では好きだと言ってやっていても、
「朝起きるのが辛くて、
仕事したくないなー」
とか、
「次の休日が楽しみ」
とか、
好きでやっていることが一番でなかったりする場合がある。


ただ、
「好きなこと」
には、
「ご褒美」
がある。


僕の場合、
古典が重んじられる伝統工芸において、
新しく図案を作っていく事が多いので、
「見たことない」
とか、
「かわいい」
とか、
云われると、すぐに調子に乗る。


よーし、
次はもっと良いものを作って、
皆を驚かしてやろう、
と、思って、
辛い作業も頑張ってできる。


その、
「辛い作業」の時間が、
「100」
だとしたら、
褒められる時間なんて、
「3」
くらいかな?


でも、
「ご褒美」があって、
それを欲してくれる人がいるから、
頑張れたりする。


生きていく事も一緒ではないかと思うことがあった。


死にたくなるときに、
「生きることが嫌いにならないと思い込んでみる」
ことだ。


思い返せば、
まさに僕は、
「生きることが嫌いにならないように」必死だった。


何とか生きがいを、
些細なことで構わないので、
生きがいを見つけようとした。


そうして、
どんなに冴えない日でも、
一日(全部で3年だけど)寝たきりで過ごしても、
その日に、
×(バツ)をつけないで、
一つでいいから、
○(マル)をつけて、
必死に生きがいを探していた。


例えば、
今日は本を1ページ読めた、
とか、
昨日より1時間長く起きていられた、
とか、
映画を一本最後まで見ることができた、
とか、
近所に買い物に行けた、
とか、
病院に行くことができた、
とか、
いろいろなことに、一日一回マルをつけた。


こんな小さな○を生きがいだとおもっていた。


今思えば、
なんて小さなことだろう、
と、思うかもしれないけど、
こういう感覚は、
こういう繊細なときにしか感じることができない。
(今の僕には気が付けないことだらけ)


だから、
「好きなことも嫌いになる時が誰だってある」
なら、
「生きることが嫌いになる時は誰だってある」
と、なると思う。


そうやって、
振り子のように、
良いことと悪いことをゆらゆらしながら生きるのは、
生きていく上では仕方のないこと。


それを大なり小なり許容して、
そうやってだましだまし生きている。


こんな感じでいいんじゃないかと思う。


些細な幸せを感じれることが、
きっと、
人生が充実している証拠です。


自分なりの幸せでいいんです。


ぼちぼちマイペースで行きましょう。