味がついている溜息

溜息に味がついてることがある。


一般的に、
溜息をつくことは、
ネガティブに考えられる。


僕はそうは思わない。


なぜ溜息をついたらいけないのか理解できない。


確かに、
あからさまな悪意をもった溜息や、
不快感を表す溜息は、
相手を不快にさせるので、
良いことではない。


しかし、
ヨガの呼吸法のようなものだろうか?
(ヨガのことは全然知らないけど)


溜息をつくことによって、
胸がスーッとするというか、
胸をなでおろすというか。
心に疲れがとれるようなリラックス効果があることを感じる。
(そんな時の溜息は、味がついているように感じる)


そのような簡単にリラックス効果を得られるなら、
溜息は悪いこととは思えない。


ましては、
溜息のような簡単な呼吸方法で楽になるのであれば、
なおさら良いことなのではないだろうか?


確かに、
人前で溜息をつくことは、
誤解を生むので避けた方がいい場合もあるだろう。


しかし、
ストレス発散としての、味がついている溜息なら、
僕は構わないと思う。


溜息をコントロールして、
リラックス効果を得るのも有意義に思う。


季節の変わり目は、
心も体も調子が整いにくい時期です。


無理をしないで、体調優先で。
早寝早起きを心がけてもいいかもしれませんね。


自分を追い込まない勇気をもって、
ぼちぼちマイペースでいきましょう。

体調が悪い時は、嫌な奴を思い出す −上手に愚痴ること−

体調が悪いと嫌なヤツ(嫌な事などの含む)を思い出す。


本当に嫌なヤツだった。
(世の中、こんな嫌な奴がいるんだとびっくりする)


思い出して、イライラしてしまって、
作業がはかどらない。


(自分自身の問題で軽い統合失調なのか、
誰しもあることなのか?は、わからない)


そんなどうでもいいやつの事なんて忘れて、
新いこと(将来の夢とか)、過去やこれからの楽しいことを考えた方が、
心も楽なのに、
そういう嫌な奴を思い出してしまう。


そういったイライラで、
漠然とした自殺念慮が生まれる。
抑うつになるからか?)


なんで嫌な奴の為にイライラしなくちゃいけないのかと、
余計に腹が立ったりする。


(自分が死ぬんだたら、殺した方がいいのでは?
と、言われたことがあるけど、人を殺したいとかいうことじゃないです。
別に、その人を殺しても、
その嫌なヤツにたいする自分のイライラは無くなりませんし)


こういうイライラになったら、
どうしようもない。


ただ、
自分の場合の解決方法は、
愚痴(悪口にならない程度に)を言うことだと思う。


(愚痴と相談は異なるけど、
ちょっとだけ似ているかもしれない)


親、友達、同僚、カウンセラー、彼女、彼氏、医者、等々、
自分の愚痴をしゃべってしまうことだ。


しゃべると、けっこうスッキリする。
(不思議とスッキリする)


で、
この時の注意点は、
愚痴っていいか否か、
ちゃんと愚痴る相手を選んで、
愚痴っていいか確認して、
そうして愚痴る(相談する)ことだ。


(特定の友人(など)に相談をしてしまい、
相手に迷惑をかけている時があるので注意。
特に、境界性人格障害(ボーダー)の人は注意すること。
また、
ボーダーの人の相談だと思ったら、相談を受ける人は、
その相談を受けるのは避けた方がいい場合もある)


愚痴るとスッキリするけど、
愚痴るにもマナーが必要ですよ。


イライラ(焦燥感)しても、
抑うつになっても、
焦らないことが大切。


ぼちぼちマイペースで。

強い心、弱い心 −相反するけど必要なこと−

「強い心」がないと生きていくのは難しい。
でも、
「弱い心」があると優しさを持てる。


どちらも幸せになるために必要なことだけど、
両立するのは、なかなか難しい。


でも、
どちらも必要なこと。


「強い心」をもっていても、
心のどこかに「弱い心」を持っている。


しかし、
「強い心」があると、
自信を持てたりする。


「弱い心」は、
「強くなれない自分」になんとなく恥ずかしいと思ってしまうけど、
誰もがもっている当たり前の気持ち。


・・・「弱い心」と「強い心」のゆりかごに揺られて生きるような毎日。


世の中では、
「強い心」が「弱い心」を救ってくれるけど、
「弱い心」に「強い心」が勇気をもって歩み寄ったり、ささえたりすることで、
「弱い心」も「強い心」も成長する。


自分の中の「弱い心」を「強い心」が支えてくれたなら、
それが人間としての成長なのだと思う。


「弱い心」の人を「強い心」の人が助ける構図も大事、
だけど、
自分の中にある、
「弱い心」を「強い心」が手助けをして、
自ら前進することも大切だと思う。


「弱い心」があってもいい。
当たり前のことだし。


人間として成長したい。


ぼちぼちマイペースで。

勝つ、克つ、そして活

勝負に勝たなくてもいいけど、
己には克ちたい。


「勝つ」
は、争いや競争、試合などの、
相手と比べて勝つようなイメージ。


「克つ」
は、自分自身に勝つこと、
己に負けないこと、
と、いうイメージ。


「勝つ」
は、勝つこと。


「克つ」
は、負けないこと。


どちらも同じような意味だけど、
人生においては、
日々、自分自身で、「常に何かを選択して行動」しているから、
弱い己に「克つ」事の方が重要に思える。


つまり、
例えばテストがあって、
勉強をしなくてはいけないけど、
今日はやる気になれなくてサボりたい。


ここで、
弱い心の自分に負けないでテストの勉強をするという選択をしたら、
「自分に打ち克つ」事であって、
それが本当の意味での勝つことの一種であって、
自分の成長につながることだと思う。


(「常に何かを選択して行動する」とは、
テスト勉強を「サボる」か「勉強するか」の選択をして行動していること)


(例えば、自動販売機で飲み物を買う時も、
「買う」か「買わない」か自分で選択していることになる)


確かに、
何かの争いや競争に勝つことも重要だけど、
それより前に、
もっと重要なことは、
「弱い自分に克って、前に進む事」
だと思う。


そうやって、
弱い自分に「克つ」という選択肢を増やしていくことにより、
「活」=生きる事
を、得ていくのだと思う。


一口に、
「かつ」
と、いう言葉の中でも、
このような意味があることは、
日本語の面白味だったりするのかもしれない。


ぼちぼちマイペースで。


死ぬために人生があるのではなく、
生きる事の為に人生はあるのだけど、
生き急ぐ必要はなく、
なんとなく嫌な事をかわしながら生きたらいいのだと思う。

一人で居ること

一人で居ること。


僕にとって、
これはとても苦痛です。


ですが、
大人数で居ることは苦手です。


飲み会などで人が多い時は、
楽しさ半分、気疲れ半分です。


(十人十色の考え方が、
大人数で交錯し合うから、
好き勝手話されるのが疲れたりします)


引っ越しして、
自分で染物の工房をやっていく事になり、
一人で居ることが多くなってきました。


今までは、
決まった時間に決まった所に行けば、
誰か知り合いがいました。



しかし、
自営業で仕事をすることは、
やろうと思えば何か月も一人で居ることができます。



何か問題がおこったり、
分らないことがあっても、
すぐに相談できる人がいません。


どうすれば一人にならないか考えても、
誰かの迷惑にならないか考えると、
なかなか連絡ができないでいます。


だから、
僕の考え方や、生活パターンを理解してくれる友達、
気軽に連絡してくれる友達の存在は、
とても心強いです。


どうにか一人にならないで済む方法を考察して、
作業を効率よく進めたいものです。


ぼちぼちマイペースで。

打っても響かない人 −病的な人と、そうでない人−

打っても響かない人がいる。


去年の10月と11月は、
そんな人に惑わされて、
心が疲れた。


目上の人だったし、
その人を立てて、
あえて褒めたりしていた。


でも、
一度解決したことなのに、
何度も同じ話をぶり返して、繰り返すから、
こちらも疲れてしまった。


そんな時、
何度も粘り強く、
「この時は、このように決まりましたよね?」


「あなたの意見も一つの見解ですけど、
今回はこういう風に決まったので、
あなたの意見では今回はできないんです」


「あなたの意見は自分の意見であって、
全体の意見ではないです(自己中はやめてください)」


こちらが何度も相手を傷つけないように、
細心の注意を払って対応しているのに、


その人は僕に対して、
「君は協調性がなさすぎる」
とか、
「協調性がないから、以前の職場で上手くいかなかったんだろう?
その職場の主とは知り合いだから、どんなだったか聞いてみるよ」
と、言ったりしていた。


相手を立てて、
粘り強く優しく話してけど、
この人は、
「打っても響かない人」
なのだと分かった。


それからは、
返事はするものの、
空返事で、その人の意見を聞いたりすることはなくなった。


そして、
僕の周囲の同僚もそうするようになっていった。


ここで肝心なのが、
こういう自己中心的な態度をとってしまっていることに対して、
その人自身が気が付いているかどうか?
が問題となる。


(1)
ある人は自分が自己中だと気が付いていて、
後々、後悔している(しかし、治せない)。


(2)
ある人は、
自分が自己中心的であると気が付いていない。


どちらもタチが悪いけど、
後者の方がタチがわるい。


・・・いくら注意しても、
自分がどのように悪いかわからないからだ。


(1)も(2)もどちらも友達ができないだろうけど、
(2)は、どうして自分には友達ができないか分らないだろう。


誤解を恐れずに云うと、
僕を苦しめた自己中な人は、
その人の場合、
その人自身の知恵の問題もあったと思う。


だから、
最後の最後では、
「仕方のないことかな?」
とも思えたからよかった。


けれども、
知恵の問題とかではなく、
その人の先天的な問題であったら、
余計に問題は複雑になる。


要するに、
アスペルガー症候群

「ボーダー」
の人の場合だ。


そうなると、
一般人ではどうしようもなくなるため、
専門知識のある医師や、
上司や、
その他、自治体に相談したり、
或は警察に相談する必要も出てくるかもしれない。


このような打っても響かない人の度合いは様々だが、
まずは、
自分が壊れないように、
逃げることが重要になってくる。


逃げるのは恥ずかしくないですよ。


季節の変わり目ですから、
体調優先で、
ぼちぼちマイペースで行きましょう。

あんまり勉強しすぎない −震災から4年経過してー

あんまり勉強しすぎない。
努力をしすぎない。


僕ら、うつ病になった人達の一部は、
人一倍努力をしてしまう人がたくさんいる。


僕の場合でも、
努力することが自分で止められない時がある。


自分の許容範囲を大きく超えてスケジュールをこなしていて、
それをなんとか貫徹してしまう。


その貫徹しようとする執念は、
ある意味で病的だ。


後々、そういった行動をとっている自分に対して、
最初は感心するけど、
よく考えたら恐ろしいことだと思う。


つまり、
体を壊すことがわかっているのに、
その作業をしてしまうのだ。


「これも勉強だからやってみよう」


と、思うのも良いけれど、
時には勉強するのをさぼっても良いと思う。


つまり、
自分のコンディション(体調)を整えることは、
その作業を頑張る(勉強する)ことよりも、
本来は、はるかに重要なことなのだ。


つまり、
自分の健康>作業を頑張ること(勉強すること)
となる。


決して、
自分の健康≧作業を頑張ること(勉強すること)
とはならない。


勉強をするな、
と、云うわけではないが、
僕ら、うつ病になる人の性格の特徴として、
必要以上に頑張りすぎる事が挙げられる。


(勉強することが重要(必要)だと過剰に考えてしまうこと)


生活に彩を与える範囲の努力は必要だと思うけど、
あまりにも負荷をかけてしまう努力をするのは良くない。


時にはブレーキをかけることに躊躇してはいけません。


勇気をもって休みましょう。
勇気をもってサボりましょう。


サボる勇気も必要ですよね。


震災の被災地でも、
過労死をしてしまう人が居るそうです。


今朝は、
被災地で医療を支えていた医師が過労で亡くなった記事を読みました。
英雄だと思います。


でも、
折角、あの大きな揺れや、津波から生き延びても、
過労で亡くなってしまうのでは、
ある意味で悲しいかもしれない。


時に人に頼り、
サボる(休む)勇気を持つことも重要になってくると思います。


ぼちぼちマイペースでいくのが理想なのかもしれません。